きたひろしまの歴史
サンドリッジ成大規模斜交層理 化石のころ 1
人類が生まれるよりはるか昔の事実は、足元の土の中を調べることによって、たくさんのことがわかります。 北広島市内では、約180万年前〜1万年前(第4紀更新世)の地層が確認されている最古のものになります。平成14年に確認されたサンドリッジ成大規模斜交層理は、この時代に属します。 この層理は、海中、それも海峡のような地形で潮流が非常に激しい条件で形成されたものです。そのような当時の北広島の様子を現代にはっきりと伝えてくれる資料です。
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・道道大曲栗山線(中ノ沢)拡幅工事中に出現したサンドリッジ成大規模斜交層理。 ・転写標本が中央公民館に展示されています。 平成21年9月1日、サンドリッジ成大規模斜交層理の転写標本は、初めての北広島市指定文化財になりました。 |
音江別川の化石たち 化石のころ 2
昭和40年代に入り音江別川流域では、大規模な砂利採取がはじまりました。 地面を深く掘り下げる作業により、大昔の地層が露頭することになります。 このような大規模な露頭や堆積物を観察する機会は今までになかったことでした。
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採取現場からは、昭和46年のバイソン右角が発見されました。
昭和50年頃から55年にかけて第4紀更新世(約180万年前〜1万年前)の地層から化石が相次ぎ発見されます。
パラマンモスゾウ、アルメニアゾウやバイソンの仲間、キタヒロシマカイギュウやヒゲクジラの仲間・セイウチといった大型哺乳類動物の化石や貝類化石などが発見されました。 |
バイソン右角 |
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このことは当時多くの人々の関心を集めることとなります。 音江別川流域のほか、輪厚川、裏の沢川、野津幌川流域の地層の露頭や土木工事現場、また丘陵周辺の低湿地帯などを精力的に調査する機運が起こり、多くの研究成果をもたらす結果となりました。 また、これらの化石は全国的にも重要な動物群として、特に「北広島化石動物群」「音江別川化石動物群」と命名され、全国の専門家・愛好家に「化石のまち」としてのきたひろしまを広く知らしめることになりました。 |
キタヒロシマカイギュウ・レプリカ |
縄文時代〜アイヌ文化期
北海道における先史時代の遺跡は、旧石器時代(2万年位)までさかのぼります。北広島市内の最古の遺跡は縄文時代早期、今からおよそ8000年位前のものになります。 この頃から地球が温暖になり、海水面も上昇し現在の地形ができたと考えられ、野幌陵丘の周辺部の段丘上には人々が多く生活するようになります。
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市内の50数カ所からは縄文時代各時期の遺跡が確認されています。東部地域の河川を中心とした南斜面や段丘部に発見されることが多く、現在の生活居住域と重なる傾向があります。 これらの遺跡はその後も永く人々が住みついていたようで、縄文時代全般にわたって遺物遺構が認められます。 |
北広島市内出土の縄文土器 |
縄文時代を経て、続縄文時代でも、市内には人々の生活の痕跡が見られます、その後の擦文時代の遺跡は今のところ確認されていませんが、さらに時代を経たアイヌ文化期の遺跡である「チャシ」址が中の沢に1ケ所、島松に1ケ所確認されています。
きたひろしまには、太古から人々の営みが続いていたのです。
しままっぷ
近世になると、文献にも北海道内の出来事がよく記されるようになります。 うち北広島に関しては、島松川付近の地名と出来事が多く登場します。
「しままっぷ」「島まっふ」などと記される、この地名はもともと、現在の島松沢付近というよりは、より下流の島松川と千歳川の合流点付近をさしていました。 なお島松川は昭和18年の河川切り替えにより、大幅に川筋が変化しています。 当時の合流点は、現在の合流点より、さらに3キロほど千歳川の下流でした。
この「しままっぷ」という地名は、近世の中ごろには、すでによく知られていたようです。 当時、重要な交通路上に「しままっぷ」があったためです。 石狩平野を経て太平洋と日本海を連絡する「勇払越」とも呼ばれたルートで、船で勇払川を遡り、ウトナイ湖、美々川や周辺湖沼を経由して、千歳付近のみは船を背負って陸路を往き、千歳川へ再び船を下ろし、「しままっぷ」を通り、石狩川へ出るという道筋です。 その中で千歳川の中間地点に「しままっぷ」はあり、船をとめ、休憩宿泊に適していました。 川と湖沼を辿り、有名無名の幾多の人々が北広島を往来していました。
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河川切り替え前の島松川河口付近 明治29年製版 陸軍測量部5万分の一地図より部分引用 |
幕末が近くなると人々や物資の往来も多くなり、ロシアへ対する警戒の必要性もあり、石狩・勇払間の交通は冬場凍結する水路よりも安定した陸上の交通路が求められます。 安政4年には「札幌越新道」と呼ばれる陸路が開削されました。 これによって、石狩低地帯をとおり日本海と太平洋をつなぐ陸路が整います。 以後、旅行者はこの陸路を多く用いるようになります。
このうち、北広島市域を含む月寒〜千歳間は、現在の国道36号線をほぼなぞる道順になり、旧島松駅逓所付近に小休所が置かれるようになりました。 付近は、札幌・千歳の中間地点で、どちらからもほぼ半日の距離となります。 旅行者たちは、朝、千歳を発ち、札幌に向かう道中、島松で昼食を摂り、復路も同様に島松で足を休めました。
以来、島松川河口の「しままっぷ」よりも上流、現在地点の島松が、多く史料に登場するようになります。 「しままっぷ」の、川から陸への引越しです。
中山久蔵と赤毛
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中山久蔵は、明治4年、島松に入植しました。 文政11年(1828)に大阪の旧家の次男として生まれ、弘化2年(1845)年、故郷を出て、各地を渡り歩きました。嘉永6年(1853)ころから、仙台藩の藩士の下で働くようになります。おりしも仙台藩は幕命により蝦夷地警備の任務を与えられた時、中山は藩士に従う形で、北海道の白老へ渡ります。その後、明治のはじめまで、中山は「主用」により仙台と北海道を行き来することになります。この間に、中山は北海道についての関係を深め、開拓に必要な知識と人脈を築いたと思われます。 |
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明治3年、中山久蔵は北海道の開拓を志すことになります。最初に勇払(現在の苫小牧)に入りますが、土地が農業に適さなかったため、翌4年、島松へやってきます。
当時、島松には、札幌越新道の島松川を渡る地点の南岸(現・恵庭市)に小休所として、小屋2棟が建てられていました。 中山久蔵は、明治4年にその小屋を仮住まいとして5円で購入し、開墾をはじめました。この年のうちに「畑地6000坪」を拓き「雑穀八拾俵余」を得ました。
明治6年には、対岸の北広島に本格的な住居を建て、以後、生涯を北広島の住人として過ごします。
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中山久蔵で忘れてはならないのは、明治6年の稲作の成功です。 道南の大野村(現・函館市)から赤毛種という米を取り寄せ、50坪ほどの水田を拓き試作、同年、「2石3斗(400リットル強)」の収量を得、以降、継続して収量を上げ続けます。後に、中山は、稲作を志す全道の開拓者たちに、種籾を無償で配布しました。 |
水稲赤毛種 |
当時、北海道で稲作は適さないとされていました。開拓使では、欧米型農業を取り入れていました。しかし中山久蔵の努力と成功が、北海道での稲作の大きな可能性を各地へ喚起することになり、以後、北海道が大稲作地帯になる端緒を拓いたのです。
また、中山は、島松が交通の要所だったことから駅逓所の経営にも力を注ぐなど、本道開発の一翼を担っていました。 特に明治14年(1881)に明治天皇の北海道巡幸の折、中山久蔵宅が行在所となったことから中山の篤農家としての名声も一層広まる結果となりました。
クラーク博士と島松
ウィリアム・スミス・クラークは、明治9年(1876)5月、ペンハロー、ホイラーの二教師とともに東京に着任し、7月札幌へ赴任しました。 開拓使は北海道の開拓を進めるにあたって欧米式農業を取り入れるため、指導者としてアメリカ・マサチューセッツ州アマスト・マサチューセッツ農科大学長であったウィリアムS・クラーク博士を札幌農学校の教頭として招きました。 任期は明治9年5月から一年間、年俸は7200円でした。
クラークは札幌農学校の教頭のほか、農場長を兼ね予備科を監督し、農、植物、英学を教授しました。
クラークは任期満了によって明治10年(1877)4月に退任し同16日札幌を去ります。 学生、職員らの一行は、島松で最後の昼食をとりました。そして一同別れを惜しむ中で、博士は悠々として再び馬に跨り、学生を顧みながら「Boys,be ambitious like this old man」と言って別れたといいます。 この「名言」が人々に広まった経過にはさまざまありますが、言葉の持つ普遍性は、今も日本中の人々の気持ちをつかみ続けています。
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現在、別れの地には記念碑が建っています。碑建立の動きは、昭和9年に「クラーク先生記念碑建設豫定地」という仮柱が建てられたことからはじまります。 実際にクラーク見送りの場にいた北海道大学初代学長・佐藤昌介が中心となりました。 しかし、仮柱は戦中戦後の混乱の中で失われてしまいます。 仮柱の場所に現在の碑が建てられたのは、昭和25年です。北海道大学の同窓生によってつくる「クラーク奨学会」が建立しました。 当時の仮柱の場所を知る宮部金吾が会の代表でした。 なおクラーク像としては札幌市内・羊ヶ丘のものが有名ですが、言葉を残したのは北広島の島松です。 |
島松駅逓所にあるクラーク記念碑 |
和田郁次郎と広島開墾地のはじまり
きたひろしまのまちづくりは明治16年(1883)、広島県人和田郁次郎が、一村落形成を目的に今の東部地域に入地したことに始まります。和田郁次郎は、弘化4年(1847)旧広島藩安芸国沼田郡段原村(現在は広島市南区段原町)山田賀津平の三男として生まれ、のち和田家を継ぎ、名を郁次郎と改めました。
明治15年(1882)、和田郁次郎は北海道開拓を志し、初めて渡道し適地を求め道内各地を探索、札幌郡内に良好の原野を見い出し、翌16年6月、谷川杢左衛門、村上孫兵衛、細江一を伴って原野に入地しました。 この年、団体移住のための小屋掛等の準備を行い、翌17年には、入植を受け入れました。総数25戸からきたひろしまの開村に向けての歩みがはじまりました。当初、開墾した田畑は16町歩(16ha)といいます。
この広島開墾地は明治18年を除き毎年入植するものが増え、同19年には5戸、同20年20戸、同21年25戸、同22年28戸、同23年26戸、同24年55戸、同25年91戸、同26年の10年目は110戸が入り戸数合計385戸の一大村落を形成するに至りました。
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広島開墾地・明治17年当時の移住者住居略図 大谷義明編・著『研究郷土史北ひろしま』北広島郷土学習会 1996 |
